ロシア革命とソ連邦の発展

 ノルマン人が9世紀に侵入し、スラヴ人を支配してノヴゴロド国を建国しました。これがロシアで最初の国です。その後、ビザンツ帝国の影響を強く受けます。13世紀にはモンゴルのキプチャク=ハン国の支配下に入ります。14世紀後半にモスクワ大公国が独立し、その少し前に滅亡したビザンツ帝国の皇帝権を継承します。異民族の支配を受けたので、民族意識が強く、統一国家は形成されますが、農奴制は強固に残存していました。そのためイギリスやフランスが近代化していく中で、かえって農奴制を強化して、領主が商品作物を生産し、貿易を通じて発展していきました。イヴァン4世、ピョートル1世、エカチェリーナ2世など有能な皇帝が出て、中央集権化に努めますが、その後には必ず反動がきて、混乱期が訪れました。

 クリミア戦争での敗北後、ついに農奴解放令が発令されますが、農奴は土地を領主から買い戻さなければならず、ミールと呼ばれる農村共同体に拘束されていきました。都市の知識人階級の一部はナロードニキと呼ばれ、農民を啓蒙して社会主義的な改革を行おうとしました。しかしかれらの運動は行き詰まり、次第にニヒリズムが発達していきました。農奴解放令により農民が自立するのは難しいですが、労働者になる道は開かれ、その安い労働力を利用して、資本主義も次第に育っていきました。

 ドイツでヴィルヘルム2世が即位すると、独露再保障条約の更新がなされず、1891年に露仏同盟が成立しました。これを機にフランス資本が流入し、シベリア鉄道の建設が始まりました。それとともにロシアでも重工業が飛躍的に発展していきます。しかし外国資本に依存いているので、労働条件は劣悪となり、社会主義運動が台頭し、マルクス主義をかかげるロシア社会民主労働党やナロードニキの系統の社会革命党が結成されました。前者はその後レーニンらのボリシェヴィキとプレハーノフらのメンシェヴィキとに分裂していきました。

 日露戦争で戦況が不利になると、血の日曜日事件がおこり、労働者の自治組織ソヴィエトが形成されました。皇帝ニコライ2世は自由主義者のヴィッテを登用し、十月宣言を出して、国会(ドーマ)を開設しました。しかし革命運動が退潮に向かうと、再び専制的姿勢を強め、1906年にはストルイピン首相はミールを解体しました。農村社会はかえって動揺し、体制の基盤は不安定になり、政府はバルカン方面への南下政策を強めていきます。

 第一次世界大戦の開戦後、ロシア軍は敗北を重ね、国民生活は困窮しました。1917年に首都ペテログラードでパンと平和を求める民衆のデモとストライキがおこると、兵士も加わり、各地に広がりました。労働者と兵士はソヴィエトを組織して革命を推進しました。この三月革命の結果、ロマノフ朝は消滅し、自由主義的な立憲民主党は社会革命党らの支持を受け、臨時政府を樹立しました。臨時政府は普通選挙による議会の招集を決めましたが、戦争は継続しました。一方ソヴィエトも存続したので、不安定な二重政権の状態が続きました。

4月にレーニンがスイスから帰国し、「四月テーゼ」を発表すると、ボリシェヴィキの勢力が増大しました。新たに社会革命党のケレンスキーが首相になりましたが、対立は続き、ボリシェヴィキは武装蜂起して十一月革命に成功しました。これにはレーニンの強い意志と雄弁が大きく貢献しています。ソヴィエト政権は直ちに「平和に関する布告」・「土地に関する布告」を採択するとともに、極めて不利な条件にもかかわらず、ブレスト=リトフスク条約を結び、ドイツと単独講和をしました。

 憲法制定議会の選挙が行われましたが、ボリシェヴィキは第一党となれず、議会を封鎖して、ソヴィエトを基盤とする体制に移行し、社会主義を目指す方針が明らかにしました。一党支配のもとで、地主から土地が没収されて農民へ分配され、工業・銀行・貿易が国営化されました。ボリシェヴィキは共産党と改称され、首都はモスクワに移されました。レーニンはロシアでの社会主義を成功させる為には、先進資本主義国での革命が不可欠と考え、コミンテルンを創設し、世界革命を目指しましたが、中国を除いて失敗に終わりました。一方国内各地には反革命政権が樹立され、シベリア出兵など連合国による干渉戦争も始まりました。ソヴィエト政権は赤軍を組織し、チェカ(非常委員会)を設置して反革命運動を取り締まりました。また、戦時共産主義を実施して、農民から穀物を強制的に徴収して、都市住民や兵士に配給しました。

 戦時共産主義は農業や工業の生産の混乱や低下をもたらしました。国内がある程度安定すると、レーニンは1921年にネップ(新経済政策)を採用し、穀物徴収をやめて農民に余剰生産物の自由販売を認め、中小企業の私的経営も許しました。この結果国民経済は回復に向かい、1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦が結成されました。

 1924年にレーニンが死ぬと、一国社会主義論をかかげるスターリンと世界革命論をかかげるトロツキーの間に後継者争いが起こりました。勝利したスターリンは1928年に第一次五カ年計画に取り組み、重工業化の推進や集団農場(コルホーズ)・国営農場(ソフホーズ)の建設を強行しました。同時に反対派の粛清が始まり、スターリンの個人崇拝が強化されました。社会主義体制のソ連は1929年からの世界経済恐慌の影響を受けず、1933年から開始された第二次五カ年計画では国民生活の向上も配慮され、1936年にはスターリン憲法が発布されました。しかし憲法に規定された信仰の自由や民族間の平等はほとんど守られず、共産党の一党支配も変わりませんでした。

 世界恐慌後、国家主義と反共産主義を唱えるファシズムが台頭し、これに対抗するため従来対立していた民主主義国と共産主義国が接近し、1934年にはソ連は国際連盟に加盟し、翌年にはコミンテルンが人民戦線の結成を主張しました。 1936年にスペインで人民戦線派が勝利して政府を形成すると、フランコ将軍が反乱を起こし、それぞれに支援国が現れて国際紛争に発展しました。しかしイギリス・フランスは不干渉の立場をとり、ファシズム側の勝利に終わりました。1937年には三国防共協定が成立し、資本主義国へのスターリンの不信感が高まりました。

 チェコスロヴァキアの解体後、ナチス=ドイツはポーランドへの要求を突き付けました。そのさいにソ連は突然1939年に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせました。これに力を得て、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まります。そのさいにソ連軍も侵入し、両国間で分割しました。ソ連はさらにフィンランドに宣戦して国境地帯の軍事基地を獲得し、バルト三国も併合しました。そこには資本主義国がファシズムを利用して共産主義国を潰そうとしていることへの対抗という意味もありますが、一国社会主義論による国造りへの着手とともに、領土拡張への政策変更も考えられます。

 ヨーロッパでイギリスのみがファシズムの侵攻に持ちこたえ、戦線が膠着すると、1941年にドイツはソ連を奇襲し、独ソ戦が始まりました。しかしドイツは短期決戦に失敗し、1943年にはスターリングラードの戦いで破れます。これはファシズム諸国の敗北を決定的とした戦いで、その後ソ連は国際会議へ出席して存在感を強めていきます。

帝国主義期のロシア

1)、資本主義の特色

 1、国家の保護や 農奴解放令 (1861)の結果得られた安い労働力、 フランス からの資本の導入→ シベリア鉄道 の建設→工業や銀行の多くは外国資本

 2、都市部中心に大工場発展→都市と農村、資本家と労働者の格差拡大

 3、専制政治の展開→低い生活水準→狭い国内市場→露骨な海外進出

2)、革命諸政党の成立

 1、 ロシア社会民主労働党 の結成(1898)…プレハーノフ・ レーニン らが指導者、マルクス主義運動→分裂(1903) ボリシェヴィキ (少数の革命家集団、レーニン)と  メンシェヴィキ (漸進的、マルトフ・プレハーノフ)

 2、 社会革命党 の結成(1901)…ナロードニキの流れをくむ

 3、立憲民主党の結成(1905)…ブルジョワ政党、立憲君主政めざす

3)、第一革命(1905)

 1、日露戦争の敗北→国民の生活圧迫→ 血の日曜日事件 (1905)→都市労働者の暴動…  ソヴィエト の結成

 2、ヴィッテの登用→ 十月宣言 の発布…国会( ドゥーマ )の開設・憲法制定→革命鎮静→ ニコライ2世 (18941917)は反動政治へ復帰

4)、 ストルイピン の改革(190611)

 1、議会の解散、革命派の弾圧

 2、農業改革… ミール の解体→農民の貧困化

 3、社会不安の増大→再び南下政策→ バルカン 半島へ

 

ロシア革命

1)、三月革命(ロシア暦二月革命)

 1、原因…第一次世界大戦の長期化→専制政治の欠陥暴露…国民生活の困窮、兵士の士気低下、政治の混乱(ラスプーチンの暗躍)

 2、1917年に首都 ペトログラード で暴動→全国に波及→ ソヴィエト の組織化…労働者・兵士、革命の推進力→ ニコライ2世 の退位…ロマノフ朝の滅亡

 3、臨時政府(3〜11)…ブルジョワ政党の 立憲民主党 中心→普通選挙による議会の召集を約束→戦争の継続

 4、ソヴィエト… 社会革命党  メンシェヴィキ 中心、政府の動向を監視→二重政権

2)、十一月革命(ロシア暦十月革命)

 1、レーニンの帰国→ 四月テーゼ の発表…戦争継続と臨時政府に反対→6月に政府は夏季大攻勢…敗北→ソヴィエト内でボリシェヴィキの勢力増大→7月蜂起…「すべての権力をソヴィエトへ」→失敗

 2、政権交替…社会革命党の ケレンスキー が首相(7〜11)→戦争継続→反革命派の反乱(9月)→政府はボリシェヴィキの援助で鎮圧

 3、ボリシェヴィキの武装蜂起…指導者は レーニン  トロツキー →臨時政府を打倒→社会主義革命→全ロシア=ソヴィエト会議の開催

 4、「平和に関する布告」…無併合・ 無賠償  民族自決 

 5、「土地に関する布告」…国有地として農民に分配

 

ソヴィエト政権と戦時共産主義

1)、ボリシェヴィキ一党独裁の成立

 1、憲法制定議会の選挙… 社会革命党 が第一党→レーニンが議会を武力解散→ボリシェヴィキの一党独裁政治

 2、外務人民委員トロツキー…ドイツと単独講和→ ブレスト=リトフスク 条約…辺境の広大な地域放棄→ドイツの敗北で無効→多くの新興国誕生

 3、ボリシェヴィキが 共産党 と改称、首都は モスクワ 

2)、干渉戦争

 1、各地に旧軍人・社会革命党などの反革命政権

 2、諸外国の対ソ干渉戦争(191822)…米・英・仏・中・日など→ シベリア出兵 …チェコ兵救出を口実

3)、ソヴィエト政府の対策

 1、 赤軍 を組織

 2、 チェカ (非常委員会)の設立…反革命容疑者の弾圧

 3、 コミンテルン (第3インターナショナル)の設立(191943) 世界革命 をめざし、各国の革命・民族運動を援助…ハンガリ−・ポ−ランド・トルコ・中国→多くは失敗、しかし中国では成功

4)、戦時共産主義(191821)

 1、共産主義理論の実践→ソヴィエト政権の防衛

 2、土地の国有化・工業の国営化・銀行・外国貿易の国営化→強制徴発・国家専売

 3、結果…農業の激減(戦前の半分)、工業生産の衰退(戦前の13.8%)、飢饉の多発→国民経済の荒廃→多数の餓死者

 

ネップとソ連邦の成立

1)、新経済政策( ネップ 192128)

 1、レ−ニンが採択…一定限度内で資本主義的な営業を復活→生産力の回復

 2、中小企業の私的企業を許す

 3、食料の強制徴発中止→農民に余剰穀物の販売の自由

 4、国民経済の回復…戦前の生産水準を回復

2)、ソヴィエト連邦の成立

 2、憲法の制定…全国に ソヴィエト 設定、18才以上の選挙権、男女同権など

 3、1922年に ソヴィエト社会主義共和国連邦 (....)の成立…最初は4つのソヴィエト共和国…ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカース

3)、対外関係

 1、好転…資本主義政策への接近、政府の地位安定

 2、ドイツとの国交回復… ラパロ条約 の締結(1922

3、国家承認… 英 ・仏・伊(1924)、日(1925) 米 (1933)

 

ソ連邦の五カ年計画とスターリン体制

1)、スタ−リン政権の確立

 1、 レーニン の死去(1924)→後継者争い…スターリンの 一国社会主義 論とトロツキーの 世界革命 

 2、スタ−リンの勝利→トロツキ−を追放→反対者を粛清

2)、 第1次五カ年計画 (192832)の推進

 1、1921年以来のネップを改定→社会主義体制の確立を目的

 2、 重工業 中心→産業革命の遂行、軍事的強国化、労働力の動員・規律化

 3、農業の集団化・機械化… コルホーズ (集団農場) ソフホーズ (国営農場)の建設→都市への食料・労働力の供給

3)、スターリンの独裁

 1世界恐慌時のソ連経済…計画経済の実施→恐慌の影響ほとんどなし→工業生産が飛躍的に発展

  2、スターリン…反対派を粛清→ 個人崇拝 の強化→スターリン体制の確立

 3、第2次五カ年計画(193337) 軽工業 にも重点→国民生活の向上

 4、第3次五カ年計画(193842)…ウラル・シベリア地域の開発、軍備・重工業の育成、戦争で途絶

4)、スタ−リン憲法の制定(1936

 1、最高機関…連邦最高会議(連邦会議と民族会議)

 2、民族の平等・信仰の自由、18才以上の男女の秘密投票による地域別直接選挙

 3、共産党の一党支配…選挙候補者の推薦制

5)、外交政策

 1、ファシズム諸国の進出に対抗→1935年、モスクワでのコミンテルン第7回大会で 人民戦線 の結成を提唱

 2、資本主義諸国との協調外交展開→1933年に アメリカ が承認、1934年に国際連盟加入

 

第二次世界大戦とソ連邦

1)、スペインの内乱(193639)

 1、大戦中、中立を保ち利益→戦後の社会混乱で軍事政権成立→1931年、王政(ブルボン朝)が倒れ、共和国成立…政局不安定→1936年、 人民戦線内閣 の成立、アサーニャ大統領

 2、 フランコ を中心にした右派勢力…モロッコで反乱…大地主・教会の支持

 3、人民戦線とファシズムの国際的決戦の場

  イ、人民戦線側…国際義勇軍と ソ連 の援助 

  ロ、ファシズム側…ドイツと イタリア の援助→ドイツ軍が ゲルニカ 爆撃

  ハ、イギリス・フランス…ドイツとの戦争や共産主義の進出を恐れ不干渉主義

 4、1939年、 フランコ が勝利→全体主義勢力の勝利

 

2)、ファシズム諸国の提携

 1、 ベルリン=ローマ枢軸 の成立(1936)…ドイツ・イタリアの関係緊密

 2、 日独防共協定 の成立(1936)…人民戦線などの国際共産主義の動きに対抗→翌年、イタリアも参加→ 三国防共協定 の成立

 3、日独伊三国同盟の成立(1940

4、ソ連邦…ドイツと 独ソ不可侵条約 締結(1939年)→全世界驚愕

3)、ヨ−ロッパ戦争の展開

 1、第二次世界大戦の勃発…ドイツ軍が ポーランド に進撃(1939)→英仏が独に宣戦

 2、ソ連の動き…ポーランドに進撃(1939)→バルト三国と相互援助条約締結→進駐・占領→フィンランドに侵入→国際連盟から除名→バルト三国の併合(1940)… エストニア ・ラトヴィア・リトアニア→ル−マニアからベッサラビア奪回

 3、ドイツのバルカン半島への侵入…ブルガリアに侵入(1941年3月)→ユ−ゴスラヴィアに侵入(4月)→ ティトー 、パルティザン闘争開始

 4、 独ソ 戦の開始(1941年6月)→ファシズムと民主主義の戦い→英ソの接近→ コミンテルン の解散(1943)

 5、ドイツ軍のモスクワ攻撃(194110月)…失敗

 6、 スターリングラード の戦い(1942年8月)…独ソ戦の決定的転機→ソ連の反撃開始