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これまで,日本は,江戸時代に,外国との交流を禁止して国を閉ざす「鎖国」をしていたというのが通説でした。しかし,今日においては,この考えが見直されつつあります。

「鎖国」という言葉を,初めて使ったのは,1810年に,長崎のオランダ通詞(つうじ)志筑忠雄(しずきただお)が,ケンペルの「日本史」の中での一節である「
to keep it shut up」を「鎖国する」と訳し,同訳書を「鎖国論」としたことに始まると言われます。この言葉が普通に使われるようになったのは,明治時代以降のことです。


一般には,1639年のポルトガル船の日本来航禁止をもって,鎖国と言われ,海外との唯一の窓口となったのが長崎の出島と考えられています。しかし,江戸幕府が出した一連の法令の中には,鎖国ということばは,一度も使われていません。また,海外との交易の窓は,長崎だけではありませんでした。


@長崎での中国及びオランダとの交易,
A対馬藩を通じての朝鮮との交易,朝鮮からは将軍の代替わりの際には,通信使が派遣されて来ました。
B薩摩藩が琉球国(沖縄)を通じての中国(福州)との交流,
C松前藩(北海道)を通じて,蝦夷(えぞ)との交易が行われました。


 日本の銀や銅をはじめとした鉱物資源の需要は根強く,日本の銅銭はアジア各国に輸出され,通貨として使用されました。

 また,この4つの交易の窓からは,積極的な外国情報の収集が行われました。この情報収集を通じて,国際情報にタイムリーに対応する政策を,「外国人の入国制限と自国民の海外渡航禁止」という制約の中で,行っていました。そしてこのことが,江戸時代末期の西洋列強の東アジアへの進出に対して的確な対応を行うことのできた理由だと言えるのです。